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内間御殿


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キーワードなし
2009/01/01 00:00
 
 

沖縄県

中頭郡西原町

歴史・文化財

 
 

内間御殿は、琉球王朝第二尚氏の始祖、金(かな)丸(まる)(のちの尚(しよう)円(えん)王)の旧宅跡に創建された神殿を中心とする祭祀施設である。


17世紀に編纂された琉球の正史『中(ちゆう)山(ざん)世(せい)鑑(かん)』によれば、金丸(1415―76)は、伊(い)是(ぜ)名(な)島諸(しよ)見(み)に生まれた。

国(くに)領(がみ)(現在の国頭郡国頭村)を経て首里に上り、第一尚氏の越(ごえ)来(く)王(おう)子(じ)(のちの尚(しよう)泰(たい)久(きゆう)王、在位1454―60)に見いだされ、尚泰久の即位とともに内間領主に任じられた。

その後、国の財政と外交を担当する御物(うむぬ)城(ぐすく)御鎖(うざしぬ)側(そば)に登用されるが、尚泰久王の死去後、王位に就いた尚(しよう)徳(とく)王(在位1461―69)と対立し、1468年、内間に隠遁した。

尚徳王が死去すると、1470年、群臣の推挙により、尚円王として琉球国王の座に就いた。


尚円王の死後、第二尚氏所縁の地として旧宅跡の聖地化が進められた。

それは、第9代尚(しよう)質(しつ)王(在位1648―68)の代、羽(はね)地(じ)朝(ちよう)秀(しゆう)(向(しよう)象(しよう)賢(けん))の進言により、尚円の旧宅跡に茅葺きの神殿(東(あ)江(がりー)御(う)殿(どぅん))が建設されたことに始まる。

第11代尚(しよう)貞(てい)王(在位1669―1709)の時、周囲を竹牆(ちくしよう)で囲み、従来の茅葺きが瓦葺きに改修された。

また、東江御殿の北側に西原間切の住民により茅葺きの西(い)江(りー)御殿が建設された。

さらに第13代尚(しよう)敬(けい)王(在位1713―51)の時には賊が入ったことを契機に、竹牆を石牆(せきしよう)に替えて管理の強化がなされるとともに、尚敬王撰文による「先王旧宅碑」が建設され、自筆の扁額が掲げられて琉球王朝の聖地としての完成をみる。

御殿(うどぅん)守(むい)による祭祀の実際は『西原中山家文書』から窺うことができる。

国家的聖地としての整備は、薩摩藩の支配下のなかで衰微した琉球の政治の刷新・復興を推し進めた羽地朝秀や蔡(さい)温(おん)が活躍した時代と重なっている。


現在も残る東江御殿の石牆は平面形が隅丸の長方形を呈している。

珊瑚石灰岩をあいかた積みとするもので、天(てん)端(ば)は丸みをおびカマボコ形となっている。

南側の本門と西側の脇門が開口する。

中央奥寄りに神殿の基壇(建物は戦後の再建)、その南東に石碑の台座と覆屋の基礎が遺存している。

発掘調査は未実施であるが、採集された屋(や)瓦(がわら)には灰色瓦と赤色瓦の2種類が存在する。

西江御殿には土留めの石垣が遺存する。

東江御殿の東方に溝で画された嘉(か)手(で)苅(かる)村の創始家とされる東(あ)江(がりー)家(け)がある。

そしてこれらの周辺には村落祭祀に伴って形成されたとみられる拝所や拝井泉が分布している。


資史料により、第二尚氏王統の初代尚円王の旧宅跡が琉球王朝の聖地として整備されていく過程を追うことができ、沖縄戦で被害を受けながらも、琉球王朝時代の石牆が良好に遺存し、戦前の写真により焼失前の堂宇の状況も知ることが可能である。

本土における祭(さい)神(じん)勧(かん)請(じよう)の形式に類する創建の経緯や、御殿守の男性による司祭と内間ノロ等の女性神役の祭祀への関与、村落祭祀との関係等、沖縄における祭祀信仰の実態を知る上で極めて重要な遺跡である。

よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。

 

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